昭和町キリスト教会の丸茂牧師を招き、「賛美を生み出す祝福」として、エペソ1章3節-14節から学びました。
この段落は、ギリシャ語原文では、一つの文章で成っており、ある高名な牧師は、「神様の恵みが滝のように流れていく」と表現しているとのことです。
「キリストにあって」という言葉が各節で繰り返され、10節では「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです」という壮大な出来事が記されています。丸茂牧師は、この箇所を「キリストによる世界の回復」とまとめられました。
神様の祝福はどうやって私たちに届くのか。キリストにあって、私たちがイエス様の元に置かれている。それ故に神様の内にある大いなる富が、全部、私たちの元に流れてくる。キリストにあって、私たちを祝福してくれる。その神ご自身をパウルは喜び、神ご自身が賛美の源であると。
パウロは、栄光の神を私たちに焼き付けようとしている。
三位一体の救い主である神を褒め称え、このお方を見上げるように私たちを招いている。
このお方こそ祝福の源である。
省みると、私たちは、パウロのような賛美をささげているだろうか。パウロのように喜びと感謝を体験したいと願っているだろうか。パウロのように神様とその救いに絶大な救いを見出しているだろうか。私たちの唇に、私たちの礼拝に滝のようにあふれる賛美があるのだろうか。
私と、み言葉が語っていることとは、余りにも差があっていいのだろうか。
私たちも、パウロのように、私たちも心からこの救い主を賛美することができる。
そのために、私たちは一つのことを求めたい。
私たちの関心を三位一体の神とその救いに向けること。聖書の中心的な教理に関心を持つこと。
パウロのように、神ご自身の栄光、救いの奥義に焦点を合わせるのなら、それを聖書を通して学び続けるのなら、喜びに驚かされる、こんな素晴らしい祝福があったのか、神はこんな素晴らしいのか。
私たちが神様や福音に自らを合わせていく。その先には、私たちの想像を絶する祝福がある。
賛美を生み出す祝福は、三位一体の神ご自身。この神様と救いを知ることを熱心に求め、ともども、み言葉に向かい、また、教会の営みを支えていきたい。
このブログの書き手が、自分自身の関心に合わせかいつまんだのが、以上に記したものです。語られたメッセージとは的を外しているところがあるかと思いますので、誤解のないよう、牧師の説教全部をお聴きください。
この日の司会者の祈りは、天の神様の恵みの中にもかかわらず、世界各地では不穏な火の粉が舞い上がっている。世の為政者は、何のために政治を行っているのかを思い起こしてもらいたいというものでした。
私は、教会へ向かう車内で「イムジン河」という歌を聞いていました。
曲の歌詞には、「誰が祖国を二つに分けてしまったの、誰が祖国を分けてしまったの」と問いかけ、訴える言葉があります。ステージから、「イムジン河は、今日、世界のどこにでも、私たちの間にも横たわる河である」と語られます。
過去、今現在、近い将来も、人々を引き裂き、分断する現実が横たわっています。いつまでもエスカレートする、追い込まれた愚かな為政者の世界を震撼させる蛮行のみならず、世界の各地で起きている人々の間の悲劇、そして、敢えて人々の分断を煽るような、この国の為政者による国葬の強行も、その一つではなかったのでしょうか。
天にあるものも地にあるもの、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められ、祝福の時が満ちるまで、神様と救いを熱心に知り、求めていきたいです。
(文責 ブログ記者)
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