キリスト教との出会い
自殺を何時、何処で実行しようかと悶々としていた頃、小学校の講堂で「天然色映画界がある」と、弟が聞いてきて「夜は怖いから、兄さん一緒に行ってくれ。」というので、渋々その会場に出かけて行きました。
それが、ユース・フォー・クライスト主催の「ムーディー科学院」の映画と宣教師による伝道会だったのです。
会場入口で見慣れないアメリカ人から赤い表紙の小冊子を手渡されました。その裏表紙に印刷されていた文字に私は引きつけられました。
そこには「あなたは何処から来ましたか。あなたは何故生きていますか。あなたは死後何処へ行きますか。これは人生の三重要問題で、聖書だけがこれに答えることができます。」というようなことが書かれていたのです。
私は帰宅するとその小冊子ヨハネによる福音書を繰り返し読みました。その中で「神はその獨(ひとり)子を贖う程に世を愛したまえり、すべて彼を信ずる者の滅びずして永遠の生命を得んためなり」というヨハネ三章十六節の言葉を見つけたのです。
この言葉とキリスト教は自殺願望の今の私に、何かを与えようとしている不思議な力であると思って、これにかけようとしたのです。
私は自分の罪深さを悟り、永遠の命を得たいと願い、イエス様を信じる決心をしました。でも心の一部には「これでだまされたとしても、自殺はそれからでも出来るから」という思いはありました。
献身への導き
私は入信の決心をしてから毎週、幼稚園で行われていたキリスト教の集会にせっせと出席し、一年後の十二月に南アルプスや八ヶ岳から流れ出る富士川の支流の釜無川でバプテスマを受けました。
この後、私は不眠症からも自殺願望からも解放されました。しかし、当時の新聞には敗戦後の混乱と人生の目的を失った人々の厭世自殺の記事が、毎日のように載っていました。私はそれらの記事を切り抜き、私の部屋の壁一面に張り、「神様これらの人々に福音を伝え、尊い命を救ってください。そのために誰かを遣わしてください。」と祈りました。すると神様は、「自殺しようとしたお前こそ適任者だ。お前が献身して彼らに福音を伝えなさい。」という答えをくださったのです。そこで私は、「それはできません。私の家は神主の家系ですし、私は長男であり、父は亡くなりました。母や姉弟たちを養う責任があります。誰か他の人を選んでください。」と祈りました。しかし神様は私に献身を迫りました。
献身と祝福
そこで高校卒業後四年目に私は献身しました。ところが父の死後、私一人ですべての遺産を相続していたので、私は勘当されてしまいました。
神様の勧めに従って牧師への道を選んだのに、家からは勘当され、宣教師は奥様の病気のために帰米され、開拓途上の教会は消滅しました。
私は旧制中学の頃から、写真家になろうと持っていたカメラや引きのばし器、また文学全集を古本屋に売ったりしてお金をつくり、上京して神学校の寮に入りました。
学校の食堂の入口には、食費滞納者の名前が張り出されましたが、私の名前はいつも上段近くにありました。
しかし、学友や高校時代のクリスチャンたちの応援と良きアルバイト先が与えれれ、困難を乗り切るのと同時に主にある兄弟の愛を知りました。
私の旧姓は「腰巻」でしたから、在学当時、女性の方々は私の名前を呼ぶのにずいぶん気を遣われたようです。
この姓は神主の官職名で、私の傍らの神社の鳥居には、「腰巻因幡守藤原正興」の刻印があります。
神学校を卒業と同時に結婚し、紀伊半島南部に開拓伝道に赴任した時、家庭裁判所に「私は牧師になり、もう神主になりませんから、(腰巻)から(藤原)に改姓します。」と申請し、それが認められ今日に至っています。
それから約三十年間和歌山県、三重県、奈良県にまたがる熊野地方で多くの信徒と教会と友人を与えられ祝福された牧会生活を送りました。
その後十年半、茨城県のキリスト教老人ホームでチャプレン兼カウンセラーをしていましたが、行政の指導でチャプレン制度が廃止されたため、四十数年ぶりに郷里に帰り、無牧であった西甲府教会の牧師となりました。
その間、私を勘当した母を含め、私と家内の両家族で十七人が洗礼を受けました。まさに「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使途の働き16・31)と、また、「神を愛する者にとってはすべての事あい働きて益とな」(ローマ人への手紙8・28)という聖書の言葉が文字通り成就しました。
私の信仰生活でモットーとしている聖句は「得たりと信ぜよ。さらば得べし」(マルコ11:24)です。
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