今日の説教は、「エペソ6章1-4節」を読み、藤原牧師の著書「快老川柳」から、「主の訓戒で育ち/そつねな」でした。
藤原牧師から原稿を頂いたので、掲載します。耳の痛い言葉ばかりです。
写真は、見えにくいのが残念ですが、「チャペルで入居者にお話しする藤原(1991年)」というキャプションが付いています。
そ・『育てよ』と長所見いだす心持ち」
あなたや私をはじめ、人はだれでも長所と短所を持っています。 長所だけの人もいなければ、短所だけの人もいません。そして多くの人は、自分の長所には気がついていなくても、短所には気づいていて、「これを何とかしなけば。」と思っています。
そういう人に、その短所ばかりを指摘したり、注意すれば、その人はやる気を失ったり伸びつつある長所の芽さえ摘んでしまいます。 むしろ、お互いの短所をあげつらうより、長所を認めあって、お互いの良いものを伸ばそうとするほうが前向きであり、建設的です。 そうすれば結果的には、短所さえ包み込んでしまい、その人、本人だけでなく、家族や職場、地域社会の人々さえ幸せにします。
同じ両親から生まれ、同じ釜の飯を食べ、同じ環境で育てられた兄弟姉妹でも、物事の考え方ややり方は一人一人みな違います。
また、老人ホームで生活されている高齢者 で、同世代の人でも、すべてをてきぱきと早く出来る人もおれば、歩くことから食べること、話すことから手仕事まで、万事がゆっくりの人もいます。
しかし、これらをその人の短所と決めつけるのではなく、長所として見いだし、それぞれの持ち味を生かすことが大事です。たとえば、急ぎのことは「てきぱきさん」に頼み、丁寧さを求められることは「ゆっくりさん」 にお願いしたら良いのではないでしょうか。
人の顔形にしても、本人の感情とはかかわりなく、持って生まれた陽気な顔つきと、物悲しげな顔つきがあります。
私の友人で、人の羨むような素敵な顔の持 ち主がいます。しかし、その友人は学生時代いつも初対面の先生に、「お前、何をニヤニ ヤしているのだ。もっと真面目にやれ。」と注意されたものです。
そうかと思うと、老人ホームのお年寄りや 職員のなかには、いつも物悲しげな顔をしている人がいて、声をかけるのも遠慮してしま うことがあります。
しかし、こういう人も、適材適所の法則を 適用し、その持ち味を長所として用いれば予想以上の効果を上げることができます。
たとえば、私の友人のようにいつも笑って いるように見える人に、結婚披露宴とか会社や組織の祝賀会の司会や、世話役をしてもらえば、参加者はその人を見るだけで幸せな気分になれ、その会は盛り上がることでしょう。
また、いつも物悲しげな顔をしている人に、 法事の受付や弔電を披露する役目をお願いすれば、参列者たちは心からの悲しみを分かち合える気持ちになり、慰めさえ受けることが できるでしょう。
次の話は、イスラエルの昔話のようです。 ある時、道の真ん中に人だかりがして、口角泡を飛ばし合っていました。のぞき込んで見ると、一匹の犬が横たわっていました。人々は、この犬について「こんな汚い犬見たことぎない。」「こんな痩せている犬知らないよ。」いきなどと言い合っていたのです。
その時、群衆の後ろの方から、「しかし、 この犬の歯をご覧なさい。こんなに白くて、
綺麗な歯は今まで見たことがありませんよ。という声がしました。皆が声のする方を見る と、それはイエス様だったというのです。
私たちは、いつでも、その人やそのものの長所を見つけようとする心掛けが大切です。
私は、子供や小鳥、猫や犬などが大好きですが、こちらが、これらの人やものの良い所を見つけて世話をすれば、必ず良い方に育つと信じています。
私は、教育というものは、本来は、その人の長所を見つけて伸ばすことではないかと思っています。ところが、親や教師、または上 司は、自分の都合を優先して子供や生徒、部下のやる気や伸びつつある芽を摘んでいない でしょうか。
たとえば、組織体や地域社会は、文句の 多い人や注文の多い人を毛嫌いしたり、排斥しようとします。しかし私は、こういう人ほど細かいことに気づいており、先見の明があり、「私なら、こうやってみる」という計画や腹案を持っている人だろうと思います。ですから、時には思い切ってそのような人に任せて、やらせてみたらどうでしょうか。そうすれば、予想外の結果が現れ、その人も、会社や組織も更に大きく育つことでしょう。
「つ・告げ口とご注進は災いのもと」
序論でも紹介し、本文でも書いたことの多くは、老人ホームで生活しておられるお年寄りのことでした。
しかし、告げ口とご注進に関するかぎり、お年寄りよりも職員、それも上層部の人の方が多く、それも凄まじいのに、私は驚かされ、 ショックを受けました。
この第一の例は、後に続く例とは異なり、どちらかというと、上の立場にあるAが、下の立場にあるBについて告げ口したことにな ります。
私が老人ホームのカウンセラーとして赴任して間もなく、ある方から分厚い手紙をいただきました。その手紙は、便箋八枚の裏表にびっしり書いてあり、所々に赤文字あり、赤傍線ありというものでした。
私は、この方とは個人的に話し合ったこともなく、面識もありせんでした。そんな方からの手紙で戸惑った私が、その中身を見てもっと困惑しました。
その内容は、ある方の個人的な攻撃でした。その方の手紙によると、ある大切なポストについているBの学歴、職歴が偽りだというのです。そして、そのことを、どのようにして調べたかが詳細に記されていたのです。
私は、手紙をくださった方も高齢であり、 遠隔地に住み、しかも重要な地位にある方なのに、こんな調査をする時間があるのか、それを何故したのか、さらになぜそれを私に送ってきたのか理解に苦しみました。
私はその方に返事も書きませんでした。 中傷されていた方にも何も言いませんでした。
そのまま数年が過ぎました。この二人とも、その大切なポストを去りました。その理由が何であったのか、どこで、だれが、何をした のか私は知りません。
次の例は、二つの施設の同列の長たちのことです。 同列と言っても、元々同じ職場におり、CとDという上下関係にあった二人でした。しかし、施設の増設にともない、もう一人の長を作る必要が生じました。そこで、C がDを新しい長に推薦したのです。
ところが、この二人は、あまり仲がよくあ りませんでした。そんなある時、Dにとっては見過ごしに出来ないような何かがCにあったのか、DはCを告発するような手紙を書き、 上層部に送りました。
このことによってDは溜飲を下げたかも知れません。当座は両者に、表面的にはなんの変化も起こりませんでした。
しかし、しばらくすると、どこからともな く、Dに対する不信感が湧き上がり、それが職場に広がりました。やがて、他の理由もあ ったのかも知れませんが、Dは他に移って行かれました。
次の例も、EとFという上下関係にかかわるご注進の例です。Fは新しい職場に高齢になってから移って来られました。紹介者と本 人であるFは数年後にはトップの座に着くも のと思っていたようです。
Fは新しい職場で、引き継ぎの仕事をしている時に、前任のEの手落ちを見つけたようです。Fは私のところに相談に来られました。 私は、「本人に直接、確かめ、直接に正した
らいかがでしょうか。」と言いました。
しかし、Fは自分の調べたEのことを、上 層部に出かけて行って、じかにご注進に及んだようです。その結果、その後のEのポスト に多少の変化はありましたが、Fはその翌年、 トップの座に着けなかっただけではなく、そ の職場を去らなければなりませんでした。
この項の始めでも「告げ口とご注進は職員 の上層部の方がひどい。」と書きましたが、 入居者の方々には、そのような人がいと いうのではありません。
やはり大勢の人が二十四時間、共同生活をしている老人ホームですから、要領のいい人がいます。要領のいい人というのは、「自分だけはいい人と思われたい。職員に、特に上の人に認められたい。」という気持ちを持ち、ことあるごとに、事務室にでかけたり、手紙を書いて、告げ口やご注進に及ぶのです。
しかし、前例からも分かりますように、そういう人は一部の人から、一時的に利用されはしますが、やがては、皆から不信の目で見られ、だれからも相手にされなくなり、結果的には、「告げ口とご注進は災いのもと」に なるだけです。
「ね・猫可愛がり孫と年寄りだめにする」
この項の「猫可愛がり」という言葉は、ことわざ辞典の中にはありません。しかし、私は小さい頃から聞かされてきました。また、 私自身も「甘やかす」とか、「溺愛」という意味を表す時に、この言葉を使ってきました。
「猫可愛がり」という表現がぴったり合うのは、おじいちゃんやおばあちゃんが孫を可愛がる時ではないでしょうか。 親は、自分の子供に対して、躾けや教育、経済や将来について、責任がありますので、子供に対して甘い顔ばかりはできません。
そこへいきますと、おじいちゃとおばあちゃんの孫に対する対応は、ある意味で無責任でも通ります。 甘い言葉やお金で手なずけ、 時には愛玩物のように扱い、時には小間使い
のように便利に使います。 そして、手に負えなくなると、孫の親である自分の息子や娘に 「お前たちの躾けが良くないから、年寄りを 馬鹿にする。」などと言ったりします。
このような猫可愛がりは、子供や孫のためにはなりません。むしろ、こうした無責任な、感情的な、場当り的な対応は子供や孫の将来をだめにしてしまいます。それゆえ、ことわざにも、「年寄りの育てる子は三百文安くなる。」というのがあるのではないでしょうか。
「猫可愛がりは孫をだめにする」だけでなく、私の老人ホームでの十年の経験から言いますと、「猫可愛がりは年寄りをだめにする」 にも通じます。
ご存じのことと思いますが、老人ホームに も幾つかのタイプがあり、また同じ型の老人
ホームに入っている人でも、十人十色です。
まず、軽費老人ホームは、「自分の身の回 りのことは自分でできる人」、そのうえ、少しの費用、すなわち軽費(月に六-七万円) が自己負担できる人が生活する場所です。
特別養護老人ホムは、「体または精神に障 害があり、常時の介護を必要とする人」が生活する所です。
養護老人ホームは、軽費老人ホームと同じような人が対象ですが、経済的に自己負担が困難な人が入れるところです。
ですから、本来、軽費ホームのお年寄りは元気で、自分のことは自分でするのが原則なのです。ホーム側は、お部屋と食事を提供し、職員はアパートやホテルの管理人やサービス係という、役目だろうと思います。
しかし、現実には、入居者の甘えからか、 軽費ホームとしては行き過ぎとも思えるようなお世話を、お節介焼きの入居者や、プロ意 識の薄いヘルパー、同情主義の職員がしてい
るように私には見えるのです。
これでは、まだまだ歳相応に、自立して色 々なことが出来る人の能力まで、寄ってたかって、早くだめにしてしまうようなものです。
今まで、私の母のことを何回か書きましたが、この原稿を書いている時点で、私の母は八十九歳です。私たち夫婦と同居という形をとっていますが、私は実の息子ということで、 母には、「自分で出来ることは自分でしなさい。」と、かなり厳しく言っています。そのためなのか、病院通いやディサービスを利用 しながらも、母は甘えることなく、身体的にも、精神的にも自立して生きています。
私は特別養護老人ホームにも、毎日のよう に出向き、お話をしていました。そこで見聞きするヘルパーさんの言動に感心したり、教 えられたりしていました。
ある時、私が廊下で目撃したことですが、その日、新しくボランティアとしてお出でくださった方が、ある人の車椅子を押してお部 屋に向かっていました。その時、一人のヘルパーさんがすれ違い、車椅子の人に「00さん。甘えてはだめですよ。自分で出来るうちは自分でしないと、動けなくなってしまいま すよ。」と言い、ボランティアの方には「この人は自分で出来る人ですから、手を貸さないでくださいね。」と言ったのす。これこそプロの姿ではないでしょうか。
特別養護老人ホームでも、入居者への対応 は三つに大別できそうです。それは、少し離れ所から見てい いい人と、いつも近くにいて看ていなければならない人、それに常時付き添っていなければ危険な人です。
猫可愛がりは、してあげる側にとっては白己満足になっても、相手にとっては自分で出来ることまでしてもらうと、自分に残っている機能までだめにしてしまう恐れがあります
「な・何事も思い悩まず主にゆだね」
人の生き方や考え方を、大雑把に分けますと、楽天家、心配性、その中間の三つになるだろうと思います。まず
私は、ある時までは神経質で心配性、そし苦労性でした。たとえば、まだ何も悪いことが起きていないのに、ものごと悪いほうへ、 悪いほうへと考え、夜、床についてしまって、 明日まで何も出来ないのに、「こうなったら、どうしよう。あれが出来なかったら私はどうなるだろう。」などと考え続け、長い間、不眠症でした。
戦中戦後の時代でしたから、良い誘眠剤もなかったし、不眠という理由だけでは、家族の無理解のため医者にも行けませんでした。
それが、私が高校二年の時に父が癌で四十八歳で死んだのが原因となり、不眠症の上に厭世的になり、自殺を考える毎日となりました。そんなおり、ある人の勧めで聖書を読むようになりました。その聖書の中で、「自分のいのちのことで・・・心配したりしてはいけません。 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。 けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よ
りも、もっとすぐれたものではありませんか。
あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。・・・だから、神の国とその 義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、 それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。」という言葉を見つけたのです。
そこで、「お金もかからないし、医者や薬の世話にもならなくてすむのだから、一つこの言葉に従ってみよう。」と決心したのです。
それからです。今までの心配性と不眠症、そして厭世的な思いから開放されたのです。
それから今日までの約四十五年間、「何事なも思い悩まず主にゆだね」で生きてきました。ここで「主」と言うのは、聖書の中に記されている、「天地万物の造り主であり、支配者なる神」のことです。
聖書の言葉に聞き従って、思い悩みから開放された私は、もっと多くの事例を体験した」かったことと、このことを多くの人に伝えたいために、牧師になろうとして、神学校に進むことにしました。
父の死後、高校を卒業したばかりの長男の私に、母と姉弟三人の生活の責任がかかっていました。その中からの進学は、ほとんど不可能でした。お金もありません。高校卒業から四年もたってからの受験です。そのうえ、 私の家は代々、神道の神主の家でした。
案の定、「神主の家から牧師になるとは何ごとか。」というわけで、親族会議が開かれ私は勘当されてしまいました。 神学校からは入学許可がでましたが、私には学費もなく、母は私の背広さえ取り上げてしまいました。 入学式でジャンバー姿は私人でした。
しかし、聖書の約束通り、神にすべてをゆだねた私に、次々と不思議なことが起こり、お金も、アルバイトも、寝具も与えられ、四年間の学びを無事に終えることが出来ました。
神学校卒業と同時に、私は三番めの挑戦を試みました。それは全く知らない土地へ行って、開拓伝道をし、教会を建てることでした。
私は、神学校の卒業式の翌々日に結婚式を挙げ、そのまま、新しい開拓地にでかけました。魚と梅干しが特産という土地でしたから、食事は来る日も来るも、アジの干物と梅干しばかりということはありましたが、飢えることなく三十年近く、その地で働くことが出来ま した。教会や伝道所も幾つか建てられました。
やがて娘も生まれました。当時は国民健康保健もなく、出産費用も大変でしたが、親切な方々のお祝いで必要経費も満たされました。
四番目の不思議は、その娘が「音楽大学に進みたい。」と言いだした時です。音大は医学部の次にお金がかかると言われました。牧師の謝儀では、娘の希望を叶えてやることは出来ません。しかし、娘はパイプオルガン科を専攻したので自前で楽器を買う必要もなく、ここでも、音大と大学院の六年間の学費がすべて満たされたのです。
五番目は、私が老人ホームのチャプレンとして招かれたときのことです。職員待遇では宗教活動ができないので、五十人近い職員の中で私一人は、職員扱いではないというのです。 しかし、私は「主にゆだねて」赴任しました。そして十年間、すべての必要が満たされたのです。
この本が出されるころ、私は聖書の言葉を信じて、更なる大きな挑戦をしていることでしょう。この続きをまた書きたいと思います。(快老いろは川柳=上手に年を重ねるための四五章を出版したのは二〇〇三年でし たが、その後四冊の本を出版できました)
0コメント