11月27日の礼拝は、清水牧師をお招きし、黙示録から学びました。
黙示録の記者ヨハネは、信仰のゆえに迫害を受け、パトモス島に流刑され、忍耐のうちにあって、七つの教会に書簡を送ったとのことです。
トルコ沿岸部に程近いエーゲ海南東部に浮かぶこの島は、今は、世界遺産として登録されているそうです。
清水先生は、担任の教会の牧会を隠退後、自然の豊かな山梨県韮崎市に移住されてきました。
地元では、移住者を歓迎する会などがあり、地元に住まわれている方々との結びつきが得られ、ぶどうやリンゴ畑の収穫の手伝いを頼まれることもあり、フルーツ王国山梨を支える働きを、身をもって実感されるとのことです。
先月の説教では、そんな実体験も合わせて、ブドウ園の労働者の箇所のお話をしていただきました。
ぶどう園の労働者の箇所は、ここにマタイ福音書の頂点があると言う聖書学者もいるそうです。
経営者であれば、今日の一日の収穫のために、どれだけの人を投入すれば、どれだけの収穫ができるか、あらかじめ計算するはずです。朝早く日の出とともに労働が始まる時に、何人の働き人を投入すれば、どれだけの仕事ができるかと。マタイ20章にあるように、9時と12時と3時と5時頃に、人も使わずに、主人自らが、人集めするのは合理的ではないです。
ところが、主人は、ここで労働者に文句まで言われているのです。
11節では、彼らは賃金を受け取ると主人に文句をつけられています。この最後の連中は、1時間しか働かななかったのに、あなたは私たちと同じようにしました。私たちは、1日中労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。
よく考えると当たり前ですね。8時間働いた人が、パートタイムで1時間ぐらいお手伝いした人より多くの報酬があって当たり前ですよね。
これ当たり前だとも思いますね。 事業を経営する人たちもみんなそう考えますよね。今、厚生労働省も、同一労働同一賃金って言ってますから、それは当然なんですよ。
しかも、この主人のユニークなところは、わざとですよ。最後に来た人から賃金を払うわけですね。これも、文句が出るのはもう当然だと思いますね。私は。そのこと。15節では、あなたの目には妬しく思えるのですかと言ってるわけですよ。
自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目には妬ましく思えるのですかって言っているわけですよね。
私は自由だ。自分のものを自分の思い通りにして振る舞って、どうして悪いんだって。こう開き直るわけですよね。
しかも、あなたにはそういう約束で働いていたのだから文句はないだろうっていうわけ。確かにその通りですよね。そう言われれば、その通りなんですよね。
しかし、そう考えても、この主人のやることというのは、なんか無計画で、場当たり的だなって。
本当にそんないい加減な感じが、私はするんだけれど。しかし、やっぱり別な目的があったわけですね。よく読むとね。
つまり、仕事のない人にどうしても仕事を与えたかった。それも確かですよね。で、もしかしたら、働く人はもう十分いたかもしれないんだけれど、しかし、やっぱり心にかかるものがあったのだろう、などと思うわけですよね。
まだ、市場で仕事をもらえるまで立ち続けている人がいる。それを、何度も何度も見に行ってですね。連れてくる。見に行って連れてくるっていう。どうしても仕事をさせたかったっていうね、うん、これも明らかですよ。
1日中立ちんぼで何の収入もなければ、家族を養うこともできない人たちがそこにいるということが、きっとこの主人んの心を捉えていたのだと思うのですよ。ここに、まさに神のご計画があった。人々を働かせるために、神のご意思があったという風に、こう想像できるわけですよね。しかし、朝から働いてるこの労働者というのは、そういう計画を知りませんからね。
自分がもう稼ぐことしか知らない。だから、どうしても他人と比べてしまう。これは、もう私も、だから、もう本当その通りですよね。
かつては、自分も失業者だった。その苦しみや、飢えの苦しみを知っていたはずなんだけれど、 いつの間にか自分が与えられたこの恵みを忘れてしまうっていうね。
そして、まだ仕事がない仲間のことを忘れてしまうっていう。そういうことだと思うんですよ。
で、この話というのは、やはり、そんなに難しくはないですよね。今から結論です。私の結論です。気を付けてほしいのは、自分は、つまり、妬んでしまうダメな人なんだと、皆さん考える。私もそう思いますよ。
よかったね、なんて言えなかったのだから。よかったね。この一言が言えなかったのは、もう残念なことだよね。
もし言えたら、もうその人は相当な人格の人だと思うけど。もう、私なんかも、あなたよかったねなんて言えないで。むしろ、妬みで、もうなんだろうこの人はと、きっと思うと、思うんですよね。
でもね、いいですか。これ結論ですよ。その時は、私たちまだ自分はダメな人なんだなどと思う必要はないと思うのですよ。もう、みんなそうなんだから。私たちは大体ね、 似たりよったりたんだからね。
この20章の16節で、このポイントですけどね。
このように、後のものが先になり、先のものが後になるのです、と言うでしょ。これも、なんていうか。さっきもこのみ言葉を2回取り上げてるのだけれど。これも、いろんな解釈がなされている。これも、皆さんも大体分かってると思いますね。
1日中働いたのはユダヤ人なんだってね、後から来た人は異邦人なんだとかね。世界宣教では、1日働いた人というのは、欧米のクリスチャンだというんですね。でね、後から来た人は、アジアのクリスチャンだ。そりゃそうだよね。もうやがて、今は、なんというか、アジア、アフリカがもう大変な勢いで。宣教が、もう爆発的な伝道していますね。まあ、ブラジルなんかもすごいみたいです。だけど、欧米が、ヨーロッパやアメリカなんかはもうだんだんと衰退してきているとも言われていますけれど。私も、それは、まあそうだろうなと思う。まあ、そういう適用をする人もいいるわけですね。
それで、教会で考えるならば、1番最初に救われた人とかですね。しばらくして救われた人、あるいは、最近救われた人という風に考えるね。それも、私は、間違いではないと思うのですよ。そういう風な 適用したところでね。まあ、それはそうだろうなってね。
でもね、まあこれは私の結論なんですけれど。やはり、私は、そういうところに目を向けるべきじゃないと思う。それは、いけないというわけではないのですけれど。ある聖書学者が言ったように、ここのマタイ福音書の頂点がある。救いの急所があると言っているわけでしょう。私、これはよく考えるとそうなんですよ。そのポイントはどこかというと。20章の15節ですね。
自分のものを自分の思うようにしていけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいのでと。この気前がいいという言葉に、私はあると思います。
この頂点の、つまりこの御言葉を解く鍵は。これは、私なりにに考えると、つまり、気前がいいというのは、辞書で調べると、 お金や物を出しおしみしないですね。けちけとしないと書いてありますね。わかりやすいですよね、つまり、私たちはケチなんですよ。大体、報いとか見返りとか、業績とか地位とかですね。場合によっては世間体とかですね。
あるいは、これだけやったんだとか、優越感に浸ったりね。
あるいは逆もありますよ。ダメな、自分はダメなんだなんて考えてしまうわけですよね。でも気前がいいというのは、どう解釈したらいいかと言ったら。圧倒的な恵みですね。これここです。ここは、私は、もう間違いなくここにあると思いますね。
つまり圧倒的な神の愛がここにあるのですよ。御子イエスキリスと私たちたのために与えてくださったね。だから、朝6時からのものも、夕方5時からのものも、同じ恵みをもらうでしょ。そうでしょ。救いに関係ないんですよ。 後から来たって同じなんですよ。つまり全く同じですね。働きの大きい小さいと言ってもですね。そういうことが、つまり、気にならないわけ。すべての人に神は同じ恵みを与えてくださいます。
圧倒的な恵みなのですよ。これ私たちは、どれだけ理解してるかということなんですよね。
私たちが人生のどんな時に救われたとしても、同じ恵みですね。同じ永遠の命、それと同じ罪の赦しいただけるのね。だから、あー、イエス様を信じるのにですね、遅すぎるということはありませんね。イス様を求めていくのにですね、決して遅すぎるっていうことは決してありませんね。
とにかくね。とにかく来なさいと、こう招いてるということですね。とにかく来なさい。とにかくブドウ園にいるということが、ブドウ園で働くということが大事なんだと言っているわけで。でも、なかなか私たちはそういうこと、なんて言うの、この圧倒的な恵みというのはね、なかなか理解できない。余りにも、もう、余りにも、この素晴らしいからね。え、えっと、なっちゃうわけだけれどね。だから、パウロもいこう言っているのじゃないですか。その広さ、高さね。長さ、高さ、深さが、どれほどであるかを理解する力を持つことができるようにと祈っているわけね。あなたも、私のブドウ園で働いたらいいだろうと言っているわけね。もう、これは結論ですよ。この恵みに溢れた、ブドウ園に来なさいと言っているわけね、 何の役にも立たないって、皆さん思っているんでしょうね。
とにかく、それでもいい。とにかく来て働きなさいってね。1時間でもいいんですよとね。一房のブドウの収穫だっていいんですよ。と言っているわけですよね。
私のために働いてごらんなさい。何もできなければ、もう一言の祈りでもいいんですよ。皆さんね、自分はダメだなんて考える必要なんかありません。皆さんね、ああ、自分はもうなんかもうケチでね、妬んじゃうんだなんて考えてもね、まいいけれど、とにかくね来て、そして、このこのブドウ園での働きに加わればいいんですよね。あとはもう神様もやってくれるよね、色々ね。アドバイス、助けてくれくれるからね。そして、 私たちはそのように誰もがですね。この恵みにです。誰もがこの恵みにね、みんな招かれているということをね。本当、私たちはなんだろう。感謝したいなってね、私は、本当にね、ここにね、 本当にここに私たちの救いがあるんだというね。このもう圧倒的な恵みの中に、自分が招かれているんだなということ考えるとね。この話というのはスポッと落ちますね。ああ、なるほどなと思いますよね。うん、そういうことですね。
お祈りします。
イエス様。私たちにも、恵み、望みを与えてくださいました。
私たちの望みの神である、主イエスキリストの父なる神様、あなたのぶどう園に、どうか私たち1人1人を生かしてくださいますように。あなたのためにどうか働かせてください。そして、あなたが与えてくださる、私たちにとってなくてはならないものを心から感謝して、喜んで受け取るものとさせてくださいますように。主イエスキリストの御名によって祈ります。
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